彼の手術は成功〜祈りの中で

彼の手術は成功。

 

約3時間弱の靭帯損傷手術。

手術の付き添いは2回目。前回は、母の卵巣嚢腫摘出手術だった。

 

クリスチャンは手術となれば、当然祈る。

親しいクリスチャンの友人に、今度手術をする話を言えば、間違いなく祈ってくれる。

 

以前母の手術の時には、牧師の奥さんが私と共に祈ってくれて、

「医者の手をあなた(神様)が握ってくれますように。」という祈りの言葉が、

まだクリスチャンになりたての信仰歴の浅かった私には、

非常に心に響いたのを覚えている。

 

目に見えることが全てじゃないんだ。

どの医者になるか、どこの病院で、どの日程で実施するか、

その時のチームは誰で、天候はどうで、まして手術中に地震などがないかどうか・・・

 

そう考えたら、ありとあらゆる目に見えない環境が、奇跡的に整えられているということ、そして、自分の想いでは、良し悪しあれど、そんな小さな自分が考える些細なことなどをはるかに上回った、何か大きな流れに身を任せると言うことを、彼女の祈りの中で感じた。

 

そして、明らかに良い流れを感じた一つが、担当医との出会い。

 

米軍勤務の彼は、基地の病院で手術を受ける。
これは絶対であり、変更は原則できない。
私にとって、アメリカの病院で、アメリカの医師と話をするのは、人生初めてだった。

 

今回は、手術前の前日に、最終確認を含む診察や、手術目準備の打ち合わせなどがあり、私はその日初めて、彼の執刀医と対面した。

 

40代手前くらいの男性外科医は、見た途端に、好感を持った。
大げさではなく、「あっ、大丈夫だ!神様ありがとう。」
と言う気持ちさせてくれた。

 

人には初対面で、それなりに何かを印象付けてくれる。
そしてその時感じた気持ちは大抵真実を語っているように思う。

 

執刀医は、なんというか、ものすごくエネルギッシュだった。


当然ながら、多忙であり、私たちとも限られた時間で顔を合わせて、
明日の手術に向けて最終確認をしてくれたのだが、よくある医者特有の、
上から目線も、結局何も言えない威圧感もなく、非常にフレンドリーで気さくだった。

 

「この先生なら、もうこの先生の言うままに」と言う気持ちにさせてくれた。
行動、言動には、全て自信が溢れていて、信頼が置けた。

 

後から、彼とも話したが、彼も同じような気持ちだった。
私にも丁寧に挨拶してくれて、質問にも、即答だけど、丁寧に答えてくれた。

 

手術は、膝の手術とはいえ、リスクがないわけじゃない。
もものすごくナーバスになっていた。
だからこそ、良い先生との巡り会い、安心が与えられたのは本当にラッキーだった。

 

手術後、彼がまだ麻酔から目を覚まさない時に、
私のところへ医師が来てくれて、
「全て順調。心配なし。」と言ってくれた時は、
これまでの肩の荷が一瞬ですっと下りた。

 

〜〜〜〜

 

「手術が成功しますように。」はずっと神様に祈ってきた事だから、
本当に良かった。

 

今までの話は、ただの良かったね!の話だけど、クリスチャンとして生きる時に、「〇〇になった。だから、神様ありがとう。」の方程式だけで生きていくのは、実は私にとってとてつもなくしんどい。

 

実際に、現実はそんなにシンプルじゃないから。

 

「〇〇になった。だから、神様ありがとう。」だけを目指していると、結局そういうのが偽善とかにもつながっていくんだと思う。

 

彼の膝の怪我は、実は4月の中旬。

 

私に時間に遊びに来て、春祭りでもち投げのイベントに行って、背の高い彼が空中キャッチをしていたんだけど、あまりの人だかりに押されて、着地の時にひねったか何かで特に膝を痛めた。

 

これが最初のスタート。

 

最初は捻挫かなとか思っていて、その日は日曜日だったから、
明日も仕事だし、早く痛みが治りますように!って思っていたのに、
月曜日で病院で診てもらっても、一向に治らなくて、1週間自宅で休む事に。

 

大きなプロジェクト中だったので、休んだ後は、すぐに復帰して、
仕事をしていたけれど、やっぱり痛くて、そして、しばらく経ってから別の医師が診察した所、念のためMRLをとっておいた方がいいってなって・・・。

 

もっと早くにと思ったけれど、それからMRLをとって、
靭帯損傷がわかり、手術に。

 

例外なく、私は、初めて怪我をした時も、初めて病院に行く時も、MRLをとるように言われた時も、絶えず手術なんかにならないようにって祈っていたし、MRLをとって問題なかったと「結局大丈夫でしたね!」って言われるようにも、祈ってた。

 

言葉通り祈りまくっていたけれど、でもその道は全部閉ざされて、結局手術で、そしてその手術は完璧だった。

 

4月中旬から7月までの過程。

 

これが神様。

 

なんでこうなの?とは思わない。正確には、思わないようにしている。
あらゆる事になんで?を求めない事こそが、それこそ神様との交わりには必要だから。

 

一つ言える事は、神様は私たちよりもはるかに多くの事を支配していて、先を知っている。それだけ。

 

そして全て益になるように導いてくれている。

 

だから、信仰っていうのは、言葉通り、途中何があっても、
それでも・・・
それでも・・・
それでも・・・

 

神様についていくこと。だと思う。

 

この手術が、何を意味していて、どういうことだったかは、それは未来の自分がわかって定義するもの。もちろん彼にとっても。

 

今はまだぼんやり。

 

でもただただ、素晴らしい医師と出会えて、全て順調にいったことに感謝している。