まがい物の友と真の友

聖書にこんな内容のことがある。下記はティモシー・ケラー氏の「結婚の意味」と言う著書から引用。

 

まがい物の友は「日和見の友人」で、あなたが調子のいい時は寄ってきますが、肩書き、地位、影響力が無くなると去ってしまう。

 

真の友は兄弟よりも近く、離れません。必要ならいつでもあなたを助ける余裕があるのです。

 

 

なるほどね。

これは友達についてのことを言っているけれど、友達がどうこうよりも、

もっと重要なのは、「自分がどうか」。

 

つまり、自分こそまがい物の友じゃないかってこと。

 

学生の頃とは違い、大人になると、改めて親友と呼べる人の少なさに驚く。

親友とは曖昧なので、あえて一生の友達って考えると、

パッと思いつくのは、2、3人しかいない。

 

そのうち、1人だけが学生時代。

残りの1、2人が教会で出会った人。

 

でも、今一生の友達と思っているだけで、住む場所が変わり、お互い色々と環境が変われば、もしかしたら疎遠になるかもしれない。それはわからない。

 

実際Facebookとかで何百人、何千人とか友達持っている人いるけれど、実際に本当の友達って数えるくらいしかいないんじゃないかな。

 

2013年のマイナビウーマンの調査で、親友と呼べる数は、次の通り。

Q.親友といえる人の数を教えてください(単一回答)
1位 0人 24.2%
2位 2人 22.3%
3位 3人 19.0%
4位 1人 15.4%
5位 5人 9.4%

 

それくらい真の友って難しい。

さっきの引用に照らすなら、真の友は「離れない」って書いてあるから、それこそ、将来は状況によってはどうなるかは分かりませんなんて言っている私の2、3人の友達も、まだ真の友かと言われれば・・・恐らく1人、もしくは0人。

 

でも、真の友に出会うのが難しいというか、

自分が「真の友」になることの方が難しい。

 

走れメロスみたいな友情を持つのが難しい。

 

結局、自分がまがい物の友に半分なりかかっているなら、相手もまがい物でお互いまがい物同士、時に打算的になり、時に「友情」らしくなる。

 

メールやメッセンジャーで、

涙の絵文字を使ったり、汗の絵文字を使いながら、

実際は超ふつうの顔して、涼しげなところにいたりとかね。。。

 

大体、バーチャルな友人はほぼまがい物だと思う。

条件が変われば、離れるから。いわゆる自然消滅。忙しいとか、遠いとか言って、なんやかんや言って、会わなくてもいいんだから。(あっ、こんな人もいたな、って連絡帳を整理した時にでも気づくっていう・・・)

 

まがい物の友同士だったら、

「(心からの)会いたい!」が先にこない。

 

最初に思うのは、

たまたま近くに寄ったからとか、(夜の空き時間夕飯でも・・・)

自分が聞きたいことあるからとか、(ご飯食べながら話そう・・・)

 

そんな理由で「久しぶり!会おう」ってなって、会ったりするんだよね。

あたかも友情を大切にしているように見えて、

ただの自分の都合っていう・・・。

 

パズルのピースみたいに、自分の予定と予定の隙間時間を満たしてくれる友人の存在になっちゃっている。しかも相手も自分も互いに。

 

もちろん、それはそれで、その瞬間は盛り上がるけど、

冒頭に書いた「離れません」の真の友からは実は結構程遠いってことが思い知らされる。

 

だから、真の友は少ない。もしくはいない。

 

でも、冷静に考えてみて、

今いるまがい物の友100人をたとえ失ったとしても、「真の友」が一人でもいるなら、それだけで、人生って、色濃くなると思う。

 

変化と多様性の今日だからこそ、そういう真の友に出会うために、真の友になるために、私の中にある「自己中」を少しずつ、捨てていきたい。

 

4針

ガラスで手を切り、4針縫いました。

 

あー何やってんだろって思います。
怪我をすると、お金も時間も一瞬でぶっ飛びます。

 

一番痛手が時間です。

 

薬を飲んだり、痛みに耐えたり、そういう細かい煩わしい時間が増えます。

仕方ないっちゃ仕方ない。

 

でも、実は全然仕方なくもないのもまた然り。

 

子供じゃないんだから、大人の怪我って、ほぼ100%不注意。だって、これこうしたら、こうなるってもう脳にインプットされているんだから。

 

慌てたとか、気づかなかったとか、思わず・・・とかも全部言い訳。

それが、だから不注意っていうやつ。

 

反省しました。

 

横須賀市の救急病院に初めて行きましたが、日曜日の昼時で、混みこみです。

でも救急医療受けられるって本当感謝なこと。

 

今は彼が手術を受けて、足が思うように動かない中で、サポートしていたので、
彼は足で、私は手で、本当に笑えないバカップルです。

 

幸い、手は使えるし、早く治りそうなので、明日からまた頑張ります。

彼の手術は成功〜祈りの中で

彼の手術は成功。

 

約3時間弱の靭帯損傷手術。

手術の付き添いは2回目。前回は、母の卵巣嚢腫摘出手術だった。

 

クリスチャンは手術となれば、当然祈る。

親しいクリスチャンの友人に、今度手術をする話を言えば、間違いなく祈ってくれる。

 

以前母の手術の時には、牧師の奥さんが私と共に祈ってくれて、

「医者の手をあなた(神様)が握ってくれますように。」という祈りの言葉が、

まだクリスチャンになりたての信仰歴の浅かった私には、

非常に心に響いたのを覚えている。

 

目に見えることが全てじゃないんだ。

どの医者になるか、どこの病院で、どの日程で実施するか、

その時のチームは誰で、天候はどうで、まして手術中に地震などがないかどうか・・・

 

そう考えたら、ありとあらゆる目に見えない環境が、奇跡的に整えられているということ、そして、自分の想いでは、良し悪しあれど、そんな小さな自分が考える些細なことなどをはるかに上回った、何か大きな流れに身を任せると言うことを、彼女の祈りの中で感じた。

 

そして、明らかに良い流れを感じた一つが、担当医との出会い。

 

米軍勤務の彼は、基地の病院で手術を受ける。
これは絶対であり、変更は原則できない。
私にとって、アメリカの病院で、アメリカの医師と話をするのは、人生初めてだった。

 

今回は、手術前の前日に、最終確認を含む診察や、手術目準備の打ち合わせなどがあり、私はその日初めて、彼の執刀医と対面した。

 

40代手前くらいの男性外科医は、見た途端に、好感を持った。
大げさではなく、「あっ、大丈夫だ!神様ありがとう。」
と言う気持ちさせてくれた。

 

人には初対面で、それなりに何かを印象付けてくれる。
そしてその時感じた気持ちは大抵真実を語っているように思う。

 

執刀医は、なんというか、ものすごくエネルギッシュだった。


当然ながら、多忙であり、私たちとも限られた時間で顔を合わせて、
明日の手術に向けて最終確認をしてくれたのだが、よくある医者特有の、
上から目線も、結局何も言えない威圧感もなく、非常にフレンドリーで気さくだった。

 

「この先生なら、もうこの先生の言うままに」と言う気持ちにさせてくれた。
行動、言動には、全て自信が溢れていて、信頼が置けた。

 

後から、彼とも話したが、彼も同じような気持ちだった。
私にも丁寧に挨拶してくれて、質問にも、即答だけど、丁寧に答えてくれた。

 

手術は、膝の手術とはいえ、リスクがないわけじゃない。
もものすごくナーバスになっていた。
だからこそ、良い先生との巡り会い、安心が与えられたのは本当にラッキーだった。

 

手術後、彼がまだ麻酔から目を覚まさない時に、
私のところへ医師が来てくれて、
「全て順調。心配なし。」と言ってくれた時は、
これまでの肩の荷が一瞬ですっと下りた。

 

〜〜〜〜

 

「手術が成功しますように。」はずっと神様に祈ってきた事だから、
本当に良かった。

 

今までの話は、ただの良かったね!の話だけど、クリスチャンとして生きる時に、「〇〇になった。だから、神様ありがとう。」の方程式だけで生きていくのは、実は私にとってとてつもなくしんどい。

 

実際に、現実はそんなにシンプルじゃないから。

 

「〇〇になった。だから、神様ありがとう。」だけを目指していると、結局そういうのが偽善とかにもつながっていくんだと思う。

 

彼の膝の怪我は、実は4月の中旬。

 

私に時間に遊びに来て、春祭りでもち投げのイベントに行って、背の高い彼が空中キャッチをしていたんだけど、あまりの人だかりに押されて、着地の時にひねったか何かで特に膝を痛めた。

 

これが最初のスタート。

 

最初は捻挫かなとか思っていて、その日は日曜日だったから、
明日も仕事だし、早く痛みが治りますように!って思っていたのに、
月曜日で病院で診てもらっても、一向に治らなくて、1週間自宅で休む事に。

 

大きなプロジェクト中だったので、休んだ後は、すぐに復帰して、
仕事をしていたけれど、やっぱり痛くて、そして、しばらく経ってから別の医師が診察した所、念のためMRLをとっておいた方がいいってなって・・・。

 

もっと早くにと思ったけれど、それからMRLをとって、
靭帯損傷がわかり、手術に。

 

例外なく、私は、初めて怪我をした時も、初めて病院に行く時も、MRLをとるように言われた時も、絶えず手術なんかにならないようにって祈っていたし、MRLをとって問題なかったと「結局大丈夫でしたね!」って言われるようにも、祈ってた。

 

言葉通り祈りまくっていたけれど、でもその道は全部閉ざされて、結局手術で、そしてその手術は完璧だった。

 

4月中旬から7月までの過程。

 

これが神様。

 

なんでこうなの?とは思わない。正確には、思わないようにしている。
あらゆる事になんで?を求めない事こそが、それこそ神様との交わりには必要だから。

 

一つ言える事は、神様は私たちよりもはるかに多くの事を支配していて、先を知っている。それだけ。

 

そして全て益になるように導いてくれている。

 

だから、信仰っていうのは、言葉通り、途中何があっても、
それでも・・・
それでも・・・
それでも・・・

 

神様についていくこと。だと思う。

 

この手術が、何を意味していて、どういうことだったかは、それは未来の自分がわかって定義するもの。もちろん彼にとっても。

 

今はまだぼんやり。

 

でもただただ、素晴らしい医師と出会えて、全て順調にいったことに感謝している。

 

 

 

 

 

英語学習開始

学生の頃から、大好きで、留学生と話す機会を持ちながら、
日本にいながら磨いた英語。

 

好きこそ物の上手なれか、英語を話すこと、使うことがそれなりに自由にできるようになって、そのスキルも活きて、アメリカ人と婚約。

 

こうなると日常的に英語の会話を使うようになるから、
ここ何年間もまともに英語を勉強していない。

 

でもそれって実は、すでにある知識を使いまわしているっていうこと。

 

もちろん、会話を通じて、新しい単語を知ったり、
あっ、こういう表現があるのねって知ることもあるけれど、
そういうのって何度も繰り返し言われて初めて学ぶ。

 

自然に学ぶ語学ってこういうのだと思う。
繰り返し、繰り返し、表現と使われる状況が似通っていて、
頭の中でようやく理解でき、つながる。

 

いちいち辞書を引くんじゃなければ、こんな程度のスピード。

 

よく外国人と付き合うと英語ができるようになるとかいうけれど、
私は全然そうは思わない。

 

その機会を使って、学び続けないと。

 

もちろん、耳が鍛えられるとか、
音に慣れるとか、そういうことはあると思う。

 

でも知らない表現も単語も知らないものは知らないし、
一度知らずにしてスルーしたら、
それはもうそのまま。

 

だから、私の英語力は就職試験や大学で鍛えた英語を基に、
若干の改善はあったとしても、
基本は知っている知識で使いまわしをしているってことがよくわかっている。

 

つまり現状維持。

 

現状維持で、幸いにも、衰退しなかったのは、運よく環境があったからだけのこと。

 

使わないものは錆びるし、埃がたまるみたいに、
磨かないと基本的には成長しない。それが私にとっての語学。

 

ある程度、自分で「英語はまあ話せるから」というレベルになると、
ほとんどのビジネスマンも「話せる自分」にOKを出しているから、
そんなに必死こいて勉強するっていうのも少なくなるんじゃないかな。

 

結局、困らないから。

 

語学なんて所詮手段だし、困らなきゃそれはそれで流れていく。

 

そんな私も、実は数日前から、英語の勉強再開しようと実は動き始めた。

 

その勉強も、今までみたいに、映画を見るとか、ニュースでも聞くとか、
わかっているのかわかっていないのかも曖昧な状態で、ただ聞き流しているようなことではなくて、本を使って机について、ちゃんと勉強。

 

まだ数日しかやっていないけれど、
学生時代の感覚を取り戻して、謙虚になって、語彙、表現をしっかり学んでいこうという試み。

 

というのも・・・
彼が来月に足の手術をすることになって、
私も手術前に先生と打ち合わせをする際には付き合おうと思っている。

 

そんな話を彼としていた時、ふと「あー少しでも傷が残らないように手術してほしいな」って思ったわけ。

 

もちろん、そんなこと当たり前でしょって言われればそうだし、私がそんな「お願いしますね!」みたいなことを言おうが言わまいが、相手はプロなんだから、私は私ができるサポートに集中すればいいだけ。

 

でも、こういう時に、ちょっと一言、なんか気持ち言いたくなった時に、
私医者を前にして、「伝えたいことを伝える」んじゃなくて、「気持ちを伝える」ことってさらっとできるのかな?って思った。

 

つまり、伝えたい気持ちは、素直に「本当にお願いします!」ってこと。
もちろん、この場合は、身振り手振りや色々なことでそういうのって言葉じゃなくて伝わるけれど、


でも、改めてなんか「こうしてほしい!」という強い想いがあった時に、
言語の壁を乗り越えて、医師に的確に意図を伝えることができるのだろうか・・・

 

そんなことを考えたら、私の英語力はまだまだだなって思ったわけ。

 

まどろっこしいけれど、「伝わればいい!」んじゃなくて、「言葉の間にある気持ちを、言葉に邪魔されずに伝える」ってこと。

 

こうなると、もはや母国語レベルでしょ・・・ってなっちゃいそうだけど。

 

そうやって諦めても始まらないから。

 

私の場合、これからの人生、外国人の伴侶を得て、
これから嫌でも、外国と関わっていく。

 

そんな時に、今の自分の語学力じゃ、「いざ」という時に(たとえそれが限られていても)、「言葉」にとらわれすぎちゃって、本当の「気持ち」うまく表現できなかったら、すごく嫌だなって純粋に思ったわけ。

 

そうなったら、少しでも、「言葉」のブロックは減らす努力をして、
少なくとも単語とか表現とか、そういうことにはもうストレスフリーになれる状態を目指していきたいなって思った。

 

ボディランゲージでなんとでもなりそうな話かもしれないし、
ただの私の欲かもしれない。

 

でも、怖いのは、語学ばっかりは、瞬間に得られるものじゃない。
その時にああいう風に言えたら・・・とか、それはすごく避けたいこと。

 

だから、少しずつ勉強再開して、レベルアップを目指しておこうと思う。

 

結局、困ったり、こんなことになったら本当に嫌だな(私の場合は、咄嗟に言いたいことを素直に言えない状態とか)って心底思った時に、私は動き始めるんだなってすごく思った。

 

これまで何年も英語の勉強なんて放置してきたから。

 

ということで、学習続けていきます。

3日断食を終えて

断食の結果・・・のアップデートします。

 

あれから、順調に3日間の水断食が完了しました。

断食最終日の3日目は「明日「お粥」が楽しみだな!」ぐらいの気持ちは若干あったけれど、いつも以上に元気で、過ごせました。

 

食べないとむしろ身体が動くってこういうことなのかと体感。

 

私の場合は、断食中にも、寝れないということはなかったけれど、やっぱりいつもよりは1〜2時間自然と早起きができてしまう。

 

早起きにも、空腹の方が私の場合は都合がいいのかと体感。

 

3日間の断食が終わって、4日目の朝を迎えた時は、
いつもと違うことが起きて、
「極度の空腹」を感じました。

 

あの感覚は生まれて初めて。

自分で3日間って決めているだけで、身体も今日からは食べられる日だとわかっているかのような反応。
身体がすごく「お腹すいた」サインを出してくれたのは結構驚きでした。

 

変化として起きたのが、味覚の変化。
お粥が美味しい。

お米の味がするってこういうことなんだって心から感じました。

 

食べるって行為が、口で食べるんじゃなくて、「心」と「頭」で食べている感覚。
これがこういう食べ物だって認識して、そして、味わって、感謝して食べる。

そうすると食事が特別なものになる。

 

断食から、かなり日数が経った今も、
味覚は健在で、食品添加物とか、化学調味料の味を結構敏感に見分けられるようになってしまいました。

幸か不幸か。

 

でも、できるだけ自然に近いものを自然に近い形で食べることに「美味しさ」があるんだなって気づかせてくれたこと、感謝です。

 

それこそ、愛知県民で育った私は、何でもかんでも濃いめの調味料かけるの大好きだったから。

 

断食は「自然」を取り戻すのを助けてくれました。

 

また、しようと思います。

断食後半戦突入〜

月曜日(昨日)から断食しています。
3日間、水、炭酸水、スポーツドリンクのみの断食で、木曜(4日目)の朝回復予定です。

 

半分過ぎたってのが、本当嬉しい。
折り返し地点って頑張れる。

 

なんでも、そうなのかな。
多くが、きっと折り返し地点に行くまでが大変なんだろうな。

 

今回の3日間断食は突然の試みです。
本当は色々と断食までに準備があった方がいいんだろうけど、
えいや〜で始めました。

 

だから、日曜日(前日)まで、超ふつうに、肉とかバカバカ食べていました。。。

 

今回の断食を始めるきっかけは簡単に言うと実験。

 

母が難病になって、これまでずっと薬に頼ってきたけれど、
でもやっぱり身体づくりだよねってなって・・・
そういう意識持ったら、食事療法などで自然治癒力を高める方法が実はいくつもあって・・・

 

今までは「あーどうせオーガニックでしょ。無農薬がいいんでしょ。食品添加物がダメなんでしょ。。。」みたいに、「わかってる、わかってる」って態度だったけれど、

 

これを機会に真剣に取り組んでみようとちゃんと情報収集始めたら・・・
「あるわ、あるわ・・・いろんな方法。」

難病って、「原因よくわかりません。」の病気だから、
こうやって、解決策が複数あるだけでも、患者側の立場からはとってもありがたいんだよね。

 

で、どれが合う?合わない?とか、は結局のところ自分の身体で試してみないとわからないのが現状。

 

そんな中で、3日間断食はなかなかいいかもと思いました。

でも・・・

母に対して、いきなり「3日間食べないで」は可哀想すぎるし、
それを説得するのに、こんな効果あるって、メリットばっかり並べられても、
頭ではわかるけれどね・・・ってなる。

 

だから、ひとまず私がやってみるから、
それで感想をシェアしようというのが今回の試み。

 

1日目は結構余裕で・・・(前日までの貯蔵がありすぎたかな?)
夜になったら、何だか気づいたら、今度行くレストランどこにしよう?なんてネットサーフィン始めていたから、これはいけない!と思って寝ました。

 

2日目(今日)は、お昼時がピークで、ランチライムになると、欲を抑えることが必死で、頭の中でいろんな言い訳(例えば、まずは1日断食からでもいいか。慣れてから3日断食にしようか。いや、やっぱり食べないと身体によくないかも・・・)が浮かんできましたが、なんとかサントリー炭酸水でしのげました。

 

3日目どうなるか・・・

 

折り返し地点、頑張っていきます。

真面目に読書するのやめました

私は専門書やビジネス書の読書が好きだけど、
以前は本当に真面目な読み方をしていたなって思います。

 

真面目っていうのは、本を最初から最後まで丁寧に読むって事。

 

でも多くの場合、1冊の本を読んでも、ワンセンテンスか心に響くものがあって、
これからの指針や知恵になれば、もう十分。

 

って事に気づいた。

 

というのも多くの場合、本って、次から次へと読んでしまうし、
読んでそのままになりがちだから。

 

だから、あんまり「読む」って事自体にこだわらないようにしてこれから読んでいこうと思います。
読書って、行為自体が自分のため。

だから、それにどんだけ時間費やしても、
人のためになんないんだよね・・・

 

どうも、私は読書を娯楽のための時間とはできないようだから、
小説をそんなに読まないので、
そこはさっさと諦めて、
読んで「活かす」事にこれからもこだわっていきたいと思います。

 

そうなると、改めて、
最初から最後まで真面目に読むって本来の目的とズレているなって気づかされます。

 

だって、活かす事ありきなら、
真面目に読んだら、もう大変でしょ。

 

間違えて内容の薄い本を買っちゃったりした場合は別だけど。

 

だから、本を読む時は、
タイトル見て、目次みて・・・
(著者の立場だったら、ここめっちゃこだわると思うから、
これに要点ほぼ集約されているはず。)

 

ビビッときたところ中心に読んでいこうと思います。

 

もう最初から最後まで読んで、
時間めちゃくちゃ使うのやめにします。

 

もったいないようだけど、本当に「活かせ」て、「プラス」に転じられれば、
今度は1500円安すぎでしょ。

 

読んで活かします。