言葉通り「全部」見られている
今日はマタイから。
神様って私のこと言葉通り「全部見ているな」ってわかる。
聖書を読む時とか、祈る時とか、賛美する時とか、礼拝に行く時とか・・・
そんな時だけじゃなくて、本当に全部。
えっ?全部?って思いたくなるけどそう。
心も身体も全部。
マタイの6:3にも、あなたがすること全部神様知っているってある。
英語だと、God knows everything you do.
エブリシング!
やっぱり全部なのね。
そういう意味では隠れようがないの。
いやちょっとこれだけは誰にも言いたくないとか、
誰にも見てほしくないとか・・・
人間やっていたら、そんなこと数々あると思う。
でも、それも全部見られている。
心が読めちゃうってそういうこと。
祈りの時にもマタイ3:8で、祈る前から私に必要なこと知ってるってある。
もうわかってるの。
何を祈ろうとしているかさえも・・・
これって神様は何でもお見通し!すごい!って流すんじゃなくて、
本当に心からわかっていることすごく大切だと思う。
だって、私たち人間だもん。
自分の考えとか欲とか、本能とか・・・それこそ悪とか・・・
そんなものについつい道がそれてしまう。
そういうことしている自分も、間違ったことしている自分も、
神様、全部見ている。
だからこそ、私たちは神様の恵みと力によって、
ちゃんと正しいことができるように!と神様についていこうとする。
自分だけじゃできない。自分だけに頼ったら、その行い信用できないからね。
神様に何も全てがコントロールされているわけじゃない。
操ってはくれないから。
だからこそ・・・
この、言葉通り「全部」見られているってことを
本心からしっかりわかっておくことってすごく大切だと思う。
人目があったら、人って行動変わるでしょ。それと同じ。
今日の行動、1秒1秒、全部見られている。
だからこそ、どう行動するかってこと。
"神の目が、いつ何時も、私を見てる。
その目に愛あり、涙あり、喜びあり。"